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先生に思い人がいると勘ぐる塾生三人のお話。
『立てば芍薬、座れば牡丹。歩く姿はユリの花』とは美人を例えたものであったはずだ。しかし敬愛する師に出会ってから、小太郎と晋助の中では意味を異にするものとなった。
なぜなら彼らが敬愛する師・吉田松陽は、その内面ばかりでなく外見までもが完璧だったのだ。
無為に時を過ごし、図体ばかりが大きくなったような大人とは名ばかりの大人を見てきた二人にとって、初めて出会った完璧な「大人」。
しかしそんな完璧な人に対し、いま子供達の中で大きな疑問が湧き上がっていた。
松陽には女の影が一切ないのだ…。
さりとて男の影があるわけでもなく、子供たちは「これは一体どうしたことだろう」と頭を悩ませていた。
晋助の父親にだって馴染みの女が外にいる。
小太郎の祖母だってその昔、亡き祖父の浮気話を小太郎に語って聞かせたことがある。
孤児として家庭を知らず戦野で育った銀時でさえ、男が足繁く遊郭に通うことを誰に教えられるでもなく知っていた。
つまりそれは男の性というものなのだ。
生き物である以上、誰にだって備わっている本能的なものだ。これを否定することは誰にもできまい。
しかし肝心の松陽は?
別に子供達だとて敬愛する師の、腹の下三寸の話が知りたいわけではない。松陽のことだ、そんなふしだらな事などあるはずもない。
とどのつまり、子供たちは松陽の色恋の「恋」の部分が知りたいのだ。
誰にでも公平で微笑みを絶やさない。時に厳しくも慈愛に満ちた師が、特定の誰かに強くひかれる様に興味があるのだ。
美しい相貌を切なく曇らせ、深く思いを寄せる…その姿が見たいのだ。
「先生だとて人間だ。恋くらいするだろう!」
この話に誰よりも強く反応を示したのは小太郎だ。人妻好きを公言して憚らぬ小太郎は、三人の中でも特に松陽を師として崇めていた。
そんな師がみせる人間らしい情動を、小太郎は好ましく思い、応援したくてたまらないらしい。
しかし小太郎たちより長い時間を松陽と共に過ごしてきた養い子である銀時は、この話が始まってから顔を曇らせていた。
「なんかそんないいモンじゃねぇ気がする…」
そもそも松陽が恋なんてするのかよ、とまで言い出し、人間性を否定し始める始末だ。
「オレだって最初は、オレに気を使ってんのかなー、とか思ってたぜ?でも違うんだよな…」
養い親について、うまく当てはまる言葉が見つからず、銀時は思い悩む。
「なんか違うんだよなアイツ…」
銀時のその言葉を掬い上げるように、それまで黙ってことの成り行きを見ていた晋助が口を開いた。
「先生は、たまに俺たちを通じて…誰かを見ているような気が…俺はする」
珍しく棘のない静かな晋助の言葉を最後に、会話は途切れ、沈黙だけがその場を支配したのだった。
・:*三☆・:*三☆・:*三☆
『先生は、たまに俺たちを通じて…誰かを見ているような気が…俺はする』
晋助のその言葉は、あながち間違っていないと、村塾の帰り道、小太郎は思った。
実は以前、一度だけ興味本位で松陽に尋ねたことがあったのだ。
松陽は若く美しいが、しかし歳の頃を考えれば妻子がいてもおかしくはない年齢なのである。実際、小太郎の亡き父も十代の終り頃に小太郎の母を妻に迎えている。
若く見えるが、松陽は物腰から察するに見た目より若干上の年齢であるように小太郎には思えて仕方ないのだ。
しかし松陽には妻子はいないという。
あるいは妻子と死別した可能性もある。
だがもしそうなら松陽のような人格者を周囲の者が放っておくはずがない。つい先日も、自分の娘を是非に…という話が村塾に持ち込まれたばかりだ。
だが松陽は首を縦には振らなかった。
金持ちの庄屋の娘で、若くて綺麗な人だった。
・:*三☆・:*三☆・:*三☆
「先生はどんな方が好みなのですか?」と悪意なく尋ねてくる教え子に、一瞬、笑顔が固まった。
子供にしてみればさして意味のない質問だったのだろう。それこそ明日になったら忘れてしまうような、そんな瑣末な問いかもしれない。
だが、よくよく思い返してみると、持ち込まれた縁談を断ったのが先日のこと。もしかしたら子供なりに気になっていたのかもしれない。
「失礼なことを訊いてしまいましたか?」
大きな瞳に不安の色が入り混じる。
普段どんな質問にも明朗快活に答えを示す自分が、まさかこんな質問に戸惑うなんて…。
「大丈夫ですよ。すこし驚いてしまっただけです。あまりに突然だったので」
「すみません…」
笑顔で返したはずの答えに、しかし子供は謝罪と共に俯いてしまう。
その俯いた姿が…
遠いあの日に置き去りにしてきた子供の姿とかさなって…
答えなくとも良いはずなのに…
なぜだか…らしくもなく、素直に口が動き出す…
「そうですねぇ…
鈍い銀の髪をした…見た目よりも柔らかい癖のある髪をもつ…不健康そうな顔色の…
不器用なほどに素直で、可愛くて、いじらしい子…ですかね」
村塾の長い廊下に沈みかけた橙の光が満ちている。
優しい色をした物悲しい夕日の中、私は遠いあの日に想いを馳せていた。
あの日拾った小さな命が、私にとっての奇跡の始まりだった。
(ハッピーエンド…とは行きませんでしたが)
・:*三☆・:*三☆・:*三☆
「終わってから初めて分かるものもある」と誰かが言っていた。
今日、晋助の言葉を受け、あのとき理解できなかった物事の輪郭が浮かび上がってきたように小太郎には思えた。
あの日、師の言葉に一瞬頭をよぎった、自分がよく知る銀色の毛玉。だがしかし、続く言葉に完全にそれは否定された。
あの時は分からなかったが…
(先生の好きな人って…銀時に似ているんだろうか)
あの日、松陽は微笑みながら「もう日も沈みかけています、気を付けてお帰りなさい」と、疑問符だらけの小太郎の小さな頭を優しく撫ぜて見送った。
(あのときも、先生は遠い目をしていた…)
それが何を意味するのか分からないほど小太郎はヤボではなかった。
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